自由は土佐の加茂より |
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関光徳氏の訃報が報じられた。
ボクシング横浜光ジムの会長として名高いが60年代を代表するボクサーでもあった。 残念ながらリアルでファイトを見る世代ではなかったが後年ビデオでいくつか見ることができた。 インファイトからチャンスを作る強打のサウスポーであった。 4度挑んだ世界王座はチャンピオンがいずれも稀代の名ボクサーばかり。 しかも相手がそれぞれ全盛期を迎えていたというのは不運としか言いようがない。 それでもメキシコの闘牛ヴィセンテ・サルディバルからダウンを奪うなど非凡さは見せていた。 サルディバルが引退後の王座決定戦に関を推薦したことからも実力を評価していたことはわかる。 1968/1/23ロンドンで行われたWBC世界フェザー級王座決定戦、相手はH・ウィンストン。 本来世界ランク上位の関の地元で行われるべきこの試合はウェールズ人の地元開催となった。 当時新興団体のWBCの開催をJBC(日本ボクシングコミッション)が認めなかったためである。 3Rに関がウィンストンの左目上を切り裂くがこの出血に主審デンキンは目もくれない。 ところが9Rに関が古傷の右目上を切ると即座にストップをかけてしまう。 試合前の打ち合わせ通りドクターの診断を仰ごうとしたのかもしれない。 (個人的にはデンキンの態度はウィンストンのTKO勝ちにしようとしか見えなかった) その瞬間アウェーの群衆はリングになだれ込み事実上試合終了となってしまった。 ほぼ同時にリングサイドからリングに上がって大声で叫んでいたのは前王者のサルディバル。 スペイン語で「カブローン(馬鹿野郎)!」「バンディーソ(泥棒)!」と、だが既に遅し。 関はリング上で引退表明をしてリングに別れを告げた。 今のようにスーパー級もなく、WBAとWBCだけの時代である。 同世代にファイティング原田・海老原博幸・小林弘といった世界チャンピオンがいたので その蔭に隠れてしまいがちで訃報も小さな扱いであった。 しかし間違いなくその実力は劣るものではなく素晴らしいボクサーであっただろう。 サルディバル戦は敵地で行われたが今でも現地で語り継がれる一戦だという。 関氏自信は東洋王者どまりだったが畑中・新井田の世界チャンピオンを育てた。 享年66歳、ご冥福を心からお祈りいたします。
by bx_16v
| 2008-06-07 22:27
| スポーツ
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